表現って何?

            演技として、人生として、心と身体と感情のバランスを追求した自己表現探求ブログ。 なんて、ぶってみたりすると、かっこいいかな(笑)




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2/18 どの「初心」がしっくり来ますか

2/18の日記
はびきのこども一日能楽体験教室の日。

会場のなるLICはびきのの方は大変よくしてくださって、
ちょっと甘えすぎました。

直前であちこちのマスコミに掲載依頼等でどたばたしたこともあったのですが(言い訳だな)、とてもとても大事なモノ一式を、持っていくことを忘れていました。

朝一番から、洋館ミステリ劇場の衣装を探しにいき、
昼には阿倍野から近鉄に乗り…
朝からこんなに手軽でよかったのかなあ、と一抹の不安はあったのですが。

悪い方で的中(+_+)

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8/30 皮・肉・骨

8/30の日記
さて、世阿弥の演劇論の話。

世阿弥の分析、整理能力は本当にすごいと思うのですが、
今日のテーマの「皮・肉・骨」もとっても新鮮で役に立つ理論です。

骨 = 生まれつきの資質、自然と備わった芸術的魅力
肉 = 修練の結果としての芸の力
皮 = 優美な姿、かたち

って、わけています。

たとえば謡いでは

声の美しさ = 皮
曲の面白さを生かす擬古 = 肉
呼吸法 = 骨

とか

舞では

姿の美しさ = 皮
舞の型の技術 = 肉
舞を舞わせる心の充実 = 骨

と、説明されています。


ごくごく簡単にいうと


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8/13 花は心の働きによって咲く

8/13の日記
さて今日の世阿弥会(いつから、この名前になったんだ(笑))。

風姿花伝の文字にも使われているように、
そして今さら言うまでもなく世阿弥の演劇論の芯となる言葉は、「花」です。

世阿弥先生はさんざ「花」がどれだけ大事か、ということをあちこちで説いています。


ならば、短絡的な時代に生きている僕たちはすぐに答えを急ぎながら思います。

『「花」はどうやれば手にはいんだよ~』と。


それが風姿花伝の最後の最後に書かれています。

世阿弥曰く
『高度な技術と、深い人生経験をふまえた演者は身につけた真の花が、どうして咲くのか、どうして散るのかといった花の理論を自覚しているから、その人の心のままである。(中略)この理論を真に理解するにはどうしたらよいだろう。(中略)ただ、むやみに理屈っぽく考えないで、実践の上で把握すべきである』

うお~っっっ! 今さら理屈っぽく考えるなって言うな~っっっっ!

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7/26 悪い所を長所と思ってしまう

7/26の日記
今日の世阿弥(^ー^)
『良い所を知らないということは、悪い所を長所と思ってしまうことである』(風姿花伝より)

もちろん演技のことです。なかなかお厳しい…。

『上手の場合は、自分の名声に頼ってしまうのと、技術的に達者であるということで欠点がかくされて、本人も自覚しない。
下手の場合は、もともと研究心が足りないのだから欠点をさとらない』

駆け出しの若造に限って、偉そうに演劇論を打つ、
という現象がここで解き明かされているわけですねえ。

あ、俺もそのウチの一人か(汗)

7/19 陰と陽の和合する境地こそ成就

7/19の日記
世阿弥は「風姿花伝」の「問答」の条で問題提起します。

「会場の雰囲気を知ること」
その日の観客の雰囲気をどうつかみ、どうすればいい公演となるのか。

『秘伝によれば、総じてあらゆる物事は、陰と陽の和合する境地こそ成就だとしるべきである』

たとえば、昼は陽だから、昼公演ではしめやかに演じようとする工夫(陰のはたらき)をすることが、すぐれた作品となり成功に導く第一歩だと。

逆に夜は陰気なので、明るく観客の心を華やかにするものがいいと。

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7/12 舞台における花をいかに咲かせるか

7/12の日記
なんで、上手い役者より下手な役者が面白いって言われたりするのか?
ってギモンを世阿弥が解き明かします。

650年も前にこの命題に向き合ってること自体が感動モノだけど、
まあ、それは置いておいて。


『どんな名木といわれるような木であっても、花の咲いていないときの木を鑑賞する人がいるであろうか、みすぼらしい桜の、つまらない花であっても、他の花に先がけて、珍しげに咲いている方が眼にうつるに相違ない』

ワビサビを愛でる日本人としては、枯木にも美しさを見ることができる…
というへ理屈も、ここでは置いといて(^ー^)

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7/5 陰気と陽気が表現の気分と調和しない

7/5の日記
世阿弥に惹かれている自己中心的なボクは、仲間にも世阿弥の書を読ませたくなる。

de、世阿弥の書を数人で読む時間を強制的につくる。

いい迷惑だろうなあ、俺は「それでも読め!」とは想ってるけど。


今日は「捨玉得花」から。

この中で、世阿弥は「どうしてその時々によって、能(公演)の良し悪しが表れるのか」といった問題を考えている。←の問題を考え、秘本として残っていたという事実だけで、俺なんかもう感動モノなんだけどね。

だって俺たちは「出来不出来」はあるものだ、って思考停止してたものね。


世阿弥がその問題の糸口としてるのが、「陰気」と「陽気」。

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4/12 よき時あらば、必ず悪き事またあるべし

4/12の戯れ言
『また「時」を警戒しなければならない。去年調子がよくても、今年は花がないことを知っておく必要がある。時間にも男時・女時というものがある。どう対処しようとしても、演技にも、いい時があれば、必ず悪いこともある。これはどうしようもない因果である。』
世阿弥『風姿花伝』「第7 別紙口伝」より

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4/8 演じようと思う心は必要ない

「演技に、演じない境地がある。演技を極め尽くして、その役に真になりきってしまえば、演じようと思う心は必要ない」世阿弥『風姿花伝』「第7 別紙口伝」より

「まず、よくその役になりきって、その成りきった姿で演技をせよ」
世阿弥「花鏡」より


…これ、スタニスラフスキーや!

4/1 それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。『風姿花伝』より(4)

『これは、油断なく心をつなぐ性根である。舞を舞いやむ間、音曲を謡いやむ所、そのほか、言葉・動き、あらゆる表現の「間」に、心を捨てずして、緊張を持続する意識の奥底の充実=内心がある。この内心の充実感が、外ににじみ出て面白いのである。かようなれども、この内心ありと、よそに見えてはいけない。もし見えれば、それはワザになる。それは「しない」面白さではない。無心になって、自分の心を自分にも隠すほどの集中力で、「間」の前後をつなぐべきである。』
世阿弥『風姿花伝』「第7 別紙口伝」より

芝居を作ってて、いつからか、
セリフとセリフの「間」の濃さが気になるようになりました。
その間に込められる「感情」が面白いと思うようになったのですが、
これを表現するのはなかなか難しい。

そもそも自分が何を要求されているのか理解できない役者もいたりして。

TTRの山本哲也さんも、成田さんも「間」をすごく大切にされています。
「鼓が鳴った後の一瞬の静寂」の面白さをいつも熱を込めて語ります。

そういった話に引き込まれながら、いつもフト思うことがあります。
舞囃子も小劇場(このカテゴリーもぼちぼち終わりだね)の役者の演技も、
やっぱり同じ舞台芸術なんだなあと。

とすれば、能楽から盗めるモノはまだまだ山とあるなあと。
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