表現って何?

            演技として、人生として、心と身体と感情のバランスを追求した自己表現探求ブログ。 なんて、ぶってみたりすると、かっこいいかな(笑)




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8/3 その人自身で存在することを目指して

8/3の日記
演劇工房では、先週に引き続いて、『老』にこだわっています。

世阿弥は風姿花伝の中でいいます。

『老人の演戯は、能の中で、至難至高のわざである。なぜならば、老人を演ずると、その演者の実力が、たちまち観客にわかるからである。総じて、能の演戯を相当に習得した役者であっても、年老いた姿は、年齢的な制約もあって、ものにならない人が多い。

 たとえば、木樵・汐汲のような写実味の勝った老人の役を、一応それらしく済じると、すぐに上手だときめるのは、大いに聞違った観かたである。冠・直衣・烏帽子・狩衣といった扮装を要する老人の役は、能をきわめた演者でなければ、演じこなすことができない。稽古を積み重ね芸の位が高くならなければ、それらしい姿に見えるものではない。

 またさらに、老人の演戯には、花がなければ、面白いところはない。だいたい、老人の立居振舞は、老年であるからといって、ただ写実的に腰や膝をかがめて、身体を折りまげ、よぼよぼした感じを現わしたりしたのでは、花がなくなって、古くさい演戯になってしまう。したがって、面白さが出にくい。

 おおよそのことをいえば、老人の演戯というものは、全体をつうじて、ひとつひとつの動作を大事にして、しとやかに演じるべきである。ことに老人の役で、しかも舞を舞う、といった趣向は、ことのほかむずかしいものである。美しい魅力があり、しかも、老人に見えるといった、相反する二つの要素を同時に持つ工夫を、くわしく習得しなけれはならない。それは、たとえてみれば老木に美しい花が咲いたように演じることである。』

この中でも僕らが大切にしないといけない部分は、もちろん
『老人の演戯には、花がなければ、面白いところはない。だいたい、老人の立居振舞は、老年であるからといって、ただ写実的に腰や膝をかがめて、身体を折りまげ、よぼよぼした感じを現わしたりしたのでは、花がなくなって、古くさい演戯になってしまう。したがって、面白さが出にくい。』でしょうね。

経験上、老人の役をしたりすると、お客さんは割と簡単に「あの人お芝居が上手ねえ」といってくれたりするのですが、実はそれが俺にとっては違和感だったりしたのです。

もちろん現代演劇と能はツクリが違ったりするのですが、俺のスキルで、世阿弥は考察は古いから…などと言えるべくもなく(笑)

役者をさわっていると想うのですが、実は、その人に近い役柄っていうのは、一番演じにくいんだなって。
世阿弥も直面が一番ムズかしいっていってるし(少し意味違うか?)。

河合準雄さんが何かの本で書いたけど、性格だって180度変わる方が変わりやすくて、性格を20度や30度(あとちょっと優しく、みたいな)変える方が難しいっておっしゃってました。

で、まあ演技の極として、世阿弥は老・女・軍を持ってきたんだなって、理解しています。
もちろん最終的には、その人自身で、板上に存在できることを目指して。
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